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日本ブラインドマラソン協会

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ランナー便り

【ランナー便り】第2回 保科清さん

保科清さんの写真

40代で走り始めアテネパラリンピック入賞。続けることが大事。

保科清さんは、長野県伊那市(旧高遠町)出身。高校生までは普通高校で学び、卒業。しかし、就職先は視力が弱いため、なかなか希望通りの所が見つからなかった。そこで、盲学校高等部で学び直し、鍼灸師の資格を取得する。小海赤十字病院に就職し、患者の立場になって、リハビリ等に専念。患者が一日も早く、復帰できるように治療にあたる。

43歳の時に、親族が亡くなる等から、自分自身の体力づくりと健康維持のためにジョッギングを始める。最初は、犬の散歩程度だったが、走る楽しさを知り、フルマラソンを目指して練習に取り組む。まだ、その頃は、一人でも走れ、病院までの通勤ラン等で月間400~500キロを走り込む。

アトランタパラリンピックを目指し、選考会に出場したが、参加照準記録に届ず、参加できなかった。シドニーパラリンピックには、出場できたが、ゴール手前80メートルで脱水症状になり、足がふらつき、腕をささえられゴールしたため、失格となってしまった。記録を残す最後の大会と決めていたが、記録が残らず「明日からまた、がんばる」「サポートしてくれた人の気持ちに応え、感謝の気持ちを表すために記録を残したい」と決意し、次のアテネパラリンピックを目指してトレーニングを始める。アテネパラリンピックでは、2時間56分30秒で5位入賞という輝かしい記録を残した。この大会の時には、視力が落ちB1、全盲クラスでの出場だった。

保科さんの写真

平成11年には長野県視覚障がい者マラソン協会を仲間と立ち上げ、副会長に就く。平成16年からは会長を引き受け、現在に至っている。会長として、長野マラソンに「視覚障がい者の部」を新設して、招待選手と全国各地から視覚障がい者を受け入れ、視覚障がい者が活躍する場を創った。トップ選手としての活動が終わっても、フルマラソン、100キロウルトラマラソン等に出場を続け、伴走者の育成も続けている。県内各地の小学校で長野県視覚障がい者マラソン協会長として、伴走体験を実施したり「夢を追う」という演題で、小学生に「続けることが大事(継続は力なり)」という内容を話し、感動をあたえている。

日本盲人マラソン協会の理事として、競技者の立場から協会の発展に寄与している。「生涯現役」という言葉が好きな通り、これからも益々、活躍することと思う。

長野県視覚障がい者マラソン協会 宮澤 武弘

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