視覚障がい者の生活の楽しみとして盲人マラソンをもっと広めたい
目が見えにくくなったのは3歳のとき。年を重ねるにつれて徐々に視力が奪われていったという。緑内障を発症した原因は不明だが、自身はそのことについてあまり悲観していなかったと振り返る。高校野球の実況中継をラジオで聴くことやグランドソフトボールに熱中し、楽しい学生時代を過ごした。大学では全盲の学生として日本で初めて物理学を専攻。実験や講義など、目が見えない故の苦労は多かったが、持ち前の朗らかな性格と周囲の助けにより学問を修めた。その後アメリカの大学院に進学。「例え障がいがあっても能力があれば誰でも上にいける。これが個人主義の国」と実感したと語る。サポート体制も整っており、受験の段階で可能性が狭まる日本との違いを肌で感じた。
マラソンとの出会いは日本への帰国後。「日本の食べ物は美味しいから、太ってしまって」と、はにかみながら話す。ダイエット目的で、ホノルルマラソンを目標に兄と走り始めマラソンに魅了された。その後、代々木公園で行われている練習会の存在を知った。競技志向が強く、1秒でも速くなるために自身の走りを追求。フルマラソンでは3時間を目標に練習を積み重ねた。「1回だけ目標を達成できたのがマラソン人生で最大の出来事」と顔をほころばせる。練習は苦しいことも多かったが、「走ることは生活の一部」と力強く話す。最近は、年齢を重ねたため競技会に選手として参加することは少なくなったものの、今も走ることはやめていない。
現在は、盲人マラソン協会(JBMA)で常務理事を務める。自身は競技としてのマラソンに打ち込んできたが、伴走者と2人で楽しく走るジョギングは、健康維持の一助となる。理事に就任してからこれまでとは異なる魅力に気付いたという。八木氏が望むのは視覚障がい者の生活の楽しみとして、盲人マラソンの普及。東京などの都会ではマラソンを楽しむ機会が増えたものの、地方ではまだまだ遅れているのが現状だ。JBMAが主催する駅伝などを通してより多くのランナーと交流し、一緒に走る楽しさを広めている。「競技はある程度のところで頭打ちになるが、ジョギングはいつまでも続けられる。ぜひ楽しんで、長く続けてほしい」とその願いを語った。
盲人マラソンにとって欠かせないのが伴走者(ガイドランナー)の存在。人手不足が嘆かれているが、近年学生の参加が増えている。八木氏は「競技引退後も能力を生かして、健康維持と社会貢献に役立ててほしい」と期待をかけた。リオパラリンピックを目前に控え、「(日本代表選手には)頑張って、メダルをとってきてほしい」と声援を送る。東京パラリンピックに向けて弾みをつけるためにも、そして盲人マラソンをより多くの人に楽しんでもらうためにも、選手たちには最大限の力を発揮してほしい。穏やかな笑顔から、盲人マラソンへの熱い想いがあふれた。
早稲田スポーツ新聞会 榎本 透子