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日本ブラインドマラソン協会

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ランナー便り

【ランナー便り】第3回 塩川 昭彦さん

ランナー便り3回目 塩川昭彦さん

30代で走り始め、第1回福知山マラソン盲人マラソン日本選手権に優勝!
今も自分の心身と対話しながら走っています。

私は、昭和36年長野県小諸市に生まれました。
眼疾は、先天性白内障で小児の頃に手術し、無水晶体眼と眼球振とう症です。左右の視力が、0.04の弱視で、地元の小学校に通っていましたが、学力の遅れで、長野盲学校に転校しました。中学部、高等部の普通科から専攻科理療科で学び、鍼灸師の免許を取得しました。

その後上京し、1年間治療院で働き、翌年に帰郷し上田市の病院に勤めました。昭和63年に、小諸経絡治療院を開業し、経絡の鍼治療の勉強をしながら臨床をしていました。30歳の時、ある事で精神病にかかり8ヶ月入院し、何とか退院し、日常生活や仕事や趣味などでも復帰でき、46歳で結婚しました。その後母に他界され、父が認知症を発症し介護もする様になり、しばらく走れなくなりましたが、父がデイサービスやショートステイなどを利用する事ができる様になり、ランニングを再開し、毎日空いた時間に走っています。

塩川さんの写真

平成7年34歳の時に、上信越自動車道の小諸インター開通記念のクォーターマラソンに初参加し、15位で表彰台に上り、賞状などを頂き感動し、走る歓びを知りました。
それがきっかけで少しずつ練習し、翌年3月、熊谷さくらハーフマラソンに参加し、18km迄順調だったが、終盤の2kmで失速し最後は歩いてのゴールで、練習の必要性を痛感しました。でも、元々は練習嫌いな性格でした。

平成10年3月、群馬県渡良瀬遊水地で、板倉ハートフルマラソンに初挑戦。冷たい雨が降り低温の中スタートしました。集団の中で走り始め、雨が止みペースを上げましたが、中盤から強風で思うように走れず、終盤の5キロは突風の影響で、やっと歩いて谷中湖を4周しました。ゴール地点がわからず、うろうろしていたら親切な方が、誘導してくれ、何とかゴールできましたが、感動よりも体が冷えきって、辛さと悔しさが記憶に残っています。

その他に、自転車にも乗っていたので水泳も練習し、トライアスロンに挑み、ショートとハーフと野尻湖や御嶽スーパートライアスロンでも完走できましたが、色々と危険な経験をし、残念ですが引退を決めました。

 

その後は、走る事に専念し、100kmウルトラマラソンにも挑み、宮古島で初完走し感激。野辺山でも完走でき、サロマでは保科清さんと一緒に走り、サブテンを達成したのが最高の至福でした! 保科さんと一緒に参加した宮古島100kmウルトラマラソンでは、足の痛みと脱水症でリタイヤ寸前、保科さんの奥さんに励まされ何とか完走しましたが、その後100kmに限界を感じ封印してしまいました。

塩川さんの写真

平成11年、長野県視覚障がい者マラソン協会に入会しました。視覚障がい者の部のマラソン大会に参加し、上位に入賞できるようになりました。保科さんと一緒に練習し、かすみがうらのフルマラソンの部に参加したり、福知山マラソンの日本選手権B3の部にも出場しました。優勝や上位に入賞できましたが、終盤失速することも多くタイムが安定せず、3時間を切れたり切れなかったり伸び悩みの状態です。フルマラソンでは、スピードとスタミナのイーブンペースで走りきれる、練習の大切さを痛感しています。

最近は、音声機器(GPSボイスコーチ=距離やタイムなどを女性の声でアナウンスしてくれる小型装着器具)のお陰で、練習が順調にできる様になり、長野マラソンの視覚障がい者の部で3連覇できたり、北軽井沢ハーフマラソン大会で50歳代の部で、3位に入賞できた事が励みになり、フルマラソンでサブスリーを目指して、競技をもう少し頑張っていきたいと思います。

将来的には、あと5年程競技を頑張っていこうと思います。その後の目標は、仲間とファンランや健康維持で走り続けることと、長野県視覚障がい者マラソン協会(NBMA)の、20周年に向けての準備や活動に協力することです。後輩の育成などもできれば良いと思っています。

長野県視覚障がい者マラソン協会会員 塩川 昭彦

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